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第27回 みらいつくり哲学学校 「第14章 生きがいへの問い(その2)時代の現実のなかで」開催報告

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22/1/19

 

2022年1月18日(火) 10:30~12:00、第27回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。

今回取り扱ったのは、「第14章 生きがいへの問い(その2)時代の現実のなかで」です。

レジュメ作成・報告は、みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライターの吉成が担当しました。

 

生きがいを問うことは、私たちひとりひとりに、各自の必然性を生き抜く強い覚悟を促します。それは、私たちに、個として徹底して生きることを要求します。

 

他方で私たちは、他者とともに生きる共同存在の構造を深く背負っており、そのつどの大きな歴史的社会的文化的な時代の現実のなかに立って生きています。

 

いかなる個人も、この共同社会と時代の現実という制約から逃れ去ることはできない。私たちはすべて、時代の子なのであると筆者は述べています。

 

私たちはたえず他者と共にあり、他者の面前で行為し、けっしてただひとりではありません。また、倫理的な存在であり、人倫の秩序を履んで生きねばならない存在者であると言えます。

 

自己と他者との「共生」が、絶対に遵守されねばならない倫理的規範の根本で、

「汝、他者を殺すなかれ」というレヴィナスの言葉は、絶対に守られねばならない倫理的規範の根本原理です。

 

もし、傲慢不遜に、おのれ一個のみの生存の拡張のために、他者を殺害し、踏み躙るようなことをすれば、それは自己の存在の根本条件である共同存在を否認することに繋がり、それは、自己矛盾を極めた暴挙と極悪非道であるということです。

 

自己も生き、他者も生きる、両者の「共生」のなかでこそ、人間の共同存在の実現が可能になります。この「共生」という規範、逆に言えば、「殺すなかれ」という命法は、人間の存在の根源的な倫理的原則であると言えます。

 

各自のかけがえのない生きがいの追求は、この根本原理に抵触してはならなりません。。他者を殺害してまで行われるエゴイズムの非道の暴虐は、許されざる悪であり、不正であり、罪である。と筆者は述べています。

 

一方で、優れた選り抜きの天才的な人々は、その強烈な個性のあまり、他者と相容れず、仲間割れや思想上の確執を呼び起こし、独立不羈(ふき)・孤立無援の境遇のなかに立たされます。そうした不幸と辛苦のなかで、後世に残る大きな仕事をなし遂げたとされています。

 

卓越した精神の持ち主たちの孤独な人生遍歴と、低俗野蛮な強欲と強権によるエゴイズムの結果の他者殺戮の暴力行為とを、絶対に混同してはならない。と筆者は述べています。

 

ショーペンハウアーは、自分の生への意志を肯定するあまり、他者の生きんとする意志をも否認し、他者の苦悩を見て喜ぶ残忍な行為に走るとき、それが「不正」であり、そうした不正を行おうとする傾向が「悪」と言いました。

 

正義とは、自分の生きようとする意志は肯定しても、けっして他者の生への意志を否定しようとはしないあり方のことです。

つまり、共生=正義であり、共生を破壊し、毀損する行為=不正・悪であるということです。

 

シェリングは、野生的な活力に翻弄されて、私たちが「我意」に趨り、「普遍意志」を踏み躙ってしまうとき「悪」というものが出現すると述べました。

このことから、他の存在者すべてとの調和と結合において、それぞれの人間は、各自の内面的な必然性を生き、本性の実現と充実に努めねばならないと、筆者は述べます。

 

また、カントは普遍性を尊び、低俗なエゴイズムやエゴイスティックな幸福追求を厳しく糾弾しました。

 

こ「汝の意志の格率が、つねに同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法と呼ばれる倫理的原則からもわかる通り、他者と共生し、調和して生きることを人間のあり方の根本と見定めた思想です。

 

晩年のカントは人間の奥底に潜む「根源悪」を問題にし、暴力的な殺戮行為の最たるものである戦争への反対の意志を表明し、「永遠平和」を主張しました。

 

戦争とは、おのれの「権利」が侵害されたと自称して「暴力」をもってする他者への「敵対行為」であり、戦争を防ぐには、人間のうちに「目下は眠っているが、もっと偉大な道徳的素質」を育成し、拡大し、道徳にもとづく政治を実践する必要があるとカントは述べました。

 

私たちは、いかにみずからの生きがいを追求しようとも、断じて、人倫の根本を蹂躙してはならず、あらゆる悪と戦い、善なる正しい共同社会が、実り豊かに実現されるよう、たえず心配りをしなければなりません。

 

その根本前提の上でのみ、私たち各自の生きがいに向けた、多様で個性的な、存在拡充の果実が稔ると考えねばならないと筆者は述べています。

 

私たちひとりひとりの生存は、現実の歴史と社会、文化と政治、経済と発展の大きな状況のなかに置かれており、後者が危機的事態に立ち至ったときには、一個人の生存などは、泡沫のごとく無残にも砕け散るおそれがあることから、

 

誤りなく歴史と社会が、よりヒューマンなあり方の実現に向かって進むよう、共同して、注意と配慮を怠らず、また各自の立場からしてそれなりの参画を企てつつ、生きねばならなりません。

 

そうした中で、私たちは、

・自分一個の生きがいへの専心没頭のあまり、狭隘な視野に閉じ込められたり、誤った主観主義的幻想の罠の虜になったりせぬように心がけ、たえず視線を広く世界と時代の全体に向けて、知性豊かに生きねばならない

・一個人の人生の葛藤に眼を奪われた結果、歴史と社会の動き全体が見えなくなってしまうようであってはならない

・現実の進むべき方向や、人間性豊かな社会のあり方について、洞察を深め、知見を磨き、各自の人生の拡充に向けて努力しなければならない

・各自の生存の深みに徹して、おのがじし、生きがいの追求に専念しなければならないが、その強な「意志」には、「知性」の導きが随伴しなければならない

・「実存」に根ざした生き方は、「理性」に照らされた広い視野をそなえつつ、探求されねばならない

 

と筆者は述べています。

 

昔からの優れた哲学者たちは、「個」は「普遍」と繫がり、けっして分断されてはいない。と言いました。

また「意志」と「知性」とは、切り離し難い関係のなかにある。ということについては、多くの思想家たちがこれらの問題をめぐって論争がなされました。

 

人生とは、良く生きようとする私たちの「意志」に依存し、それによってのみ真に形成されます。人生がどのようなものであるべきかは、私たちの「知性」によって把握。知性なくしては、人生を導く光が欠如します。

 

「知性」と「意志」のいずれが主導権を握るべきかについて、

それを「知性」に求める「主知主義」。それを「意志」に求める「主意主義」。

という二つの考え方があります。

 

この問題には、「個」と「普遍」、「部分」と「全体」との関係が絡んできます。

「意志」の強調は、多くの場合、「個」の重視に繫がり、「知性」の尊重は、「普遍」や「全体」の力説となります。

 

「個」の尊重や「意志」の重視は、かけがえのない個体を「愛」し、一回限りの個性豊かな多様性を慈しみ、そこに絶対的ないのちの尊厳を見る人生態度を帰結し、

「知性」による「普遍」や「全体」の掌握と理解の重視は、世界のすべてにわたる事象の複雑な意味的諸連関を、「概念把握」して、それを「知」において総合する「理知」的な人生態度を生み出します。

 

この二つの見解は、人間的個体の「実存」の深さを強調する態度と、それを「理性」によって広げ、全体性への視界を切り開こうとする態度との争いともいえます。

 

二度の世界大戦という悲劇から学んだことは、「良心的ヒューマニズム」の立場に立ち、時代全体の動きに対し、良い意味での「政治」的参画を果たす必要性です。

 

大規模な地球世界時代の出現に対して、文明世界が今後どう展開されてゆくべきか、監視と吟味、熟慮と省察を怠ってはならない。と筆者は述べています。

 

時代の現実が課している諸困難や諸問題に対しては、真摯に考え抜き、「良心的ヒューマニズム」の立場に立って、態度決定する必要があります。

個と普遍、部分と全体、意志と知性、実存と理性とを繫ぐ豊かな展望をえて、各自の人生行路の実りも、時代の現実のなかに根ざして大きく成長すると筆者は言います。

 

「良心的ヒューマニズム」にもとづく「政治哲学」的思索は、現代人の責務だと言います。

「良心的ヒューマニズム」とは、生きがい豊かに人生を生きる、いのちの尊厳に満ち溢れた存在であり、けっして何物によっても蹂躙されてはならない人権を有するという「人間主義」すなわち「ヒューマニズム」の根本思想にそれが立脚します。

 

生きがいを問う人生態度は、個人主義の狭隘(きょうあい)に堕すと思われがちですが、むしろ、個人としての生き方が世界公民の生き方に繫がり、グローバルな世界全体の諸問題と結び合っている。と筆者は述べます。

 

私たちは、現代においてこそ、改めて、この個と全体・普遍を繫ぐ意義深い脈絡の豊かな土壌の上にしっかりと根ざして、生きがいの探究に邁進しなければならないと思う。として、今回の内容は終わりました。

 

 

ディスカッションでは、まず、今回の本文は「~しなければならない、~であってはならない」という内容ばかりであったという感想があがりました。そのことに関連して、本文中にも出てきたカントの定言命法が影響して、このような表現になっているのではないかという考察も出てきました。

また、著者の良しとする生きがいは、個で完結する内容であるように感じる。他者と関わることでの生きがいもあるのでは?という話や、それぞれの生きがいなどに関する話題があがりました。

 

私は、ゲームをしたりアニメを見たりするために生きていると言っても過言ではないかもしれません。それも生きがいと呼べると思います。

 

 

次回、第28回(偶数回)は、2022年1月25日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第6章 <活動的生活>と近代(41~43節)」を扱います。

第29回(奇数回)は、2月1日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第15章生きがいへの問い(その2)意味と無意味の間」を扱います。

レジュメ作成と報告は、「みらいつくり大学」教務主任の宮田直子が担当します。

 

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

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