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第16回 みらいつくり哲学学校 「第4章 仕事(22・23節)、第5章 活動(24節)」開催報告

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2021.9.24

 

2021年9月21日(火) 10:30~12:00、第16回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。

 

今回取り扱ったのは、「第4章 仕事(22・23節)、第5章 活動(24節)」でした。

 

まずは、22節の内容です。

古代が<工作人>を排除しようとしたように、近代は政治的人間、すなわち活動し言葉を発する人間を、その公的領域から排除しようとしました。

古代では、政治共同体とは異なるタイプの人間共同体がありました。

 

普通の人の公的生活は「人民のための仕事」に限定され、職人(デミウルゴス)に限定されていたため、職人というのは奴隷とは区別されていました。

 

これら職人の公的な場所はアゴラと呼ばれ、そこは市民の集会場ではなく、職人が自分たちの生産物を陳列し交換することのできる市場だったそうです。

 

中世都市の商工地区でも商品が陳列されると同時にその商品を生産する様子が陳列されていました。

「人目につく消費」が労働者社会に特徴的であるのと同時に「人目につく生産」は生産者の社会の特徴でありました。

 

<労働する動物>の社会生活は、世界を欠き、獣の群れの如きものであり、公的な世界の領域を建設する能力も、そこに住む能力ももたない。とアーレントは述べています。

一方で、<工作人>の場合は、それ独自の公的領域をもつ能力を完全にもっているといいます。

その公的領域とは交換市場であり、そこでは彼は自分の手になる生産物を陳列し、自分にふさわしい評価を受けることができます。

 

世界の建設者であり、物の生産者である<工作人>は、自分の生産物を他人の生産物と交換することによってのみ、自分にふさわしい他人との関係を見いだすことができます。

社会領域の勃興によって、仕事人の「光輝ある独居」も脅威に曝されるようになり、仕事能力や卓越という観念が掘り崩されて行きました。

 

あらゆる職人芸にとって死活の必要条件は、他人からの独居であると言えます。

アーレントは、共同作業について、実際には労働の分業の一変種であり、仕事人にとって疎遠で破壊的でさえあると述べています。

 

歴史的には、<工作人>の活動力と関連をもつ最後の公的領域である交換市場は、商業社会に移っていきました。

それと同時に、取引と交換をどこでも行いたいという渇望が生まれます。

労働が高く評価され、労働社会が勃興し始めると、「人目に立つ生産」とその自負は、「人目に立つ消費」とそれに付随する虚栄に置き代えられ、商業社会は終末を迎えます。

その後労働社会というものができます。労働社会では、労働力は、機械と同じくらい高い価値が与えられます。「価値ある」ものとは、機械がいっそう円滑に機能することです。

また、機械の巨大な処理能力によって、すべての物が標準化され、すべての物が価値を下げ、消費財に変わって行きました。

 

商業社会あるいは初期段階の資本主義では、

まだ激しい競争精神や利得精神に満ちていて、依然として<工作人>の標準によって支配されていました。

また、交換市場のために、使用物というよりは、むしろ交換対象物を生産していました。

 

使用価値と交換価値の区別に反映している質の変化が起こっていきました。

 

価値というのは、物や行為や観念と違って、特定の人間的活動力の生産物ではけっしてなく、このような生産物が社会の構成員の間で行われる交換の絶えず変化する関係の中に引き込まれるときにはいつでも存在するに至ります。

 

次に23節の内容です。芸術作品について触れていきます。

 

芸術作品は~のために役に立つというものではない中で生まれ、生きていくために必要なものではないのに存在するものです。

また、一度生み出された作品は基本的に永続性を持ちます。消費されないことから世界的であるといえます。

ですが、このような芸術作品も交換市場での交換の対象になっています。

 

物化について、芸術作品の物化は単なる変形(トランスフォーメーション)以上のものであるといえます。

・「生きた精神」が生き続けなければならないのは必ず「死んだ文字」の中においてである

・「生きた精神」を死状態(デッドネス)から救い出すことができるのは、死んだ文字が、それを進んで甦らせようとする一つの生命とふたたび接触するときだけである

物化についてはこのようにも言われています。

 

詩は、言語を材料とします。これは、芸術の中で最も人間的で、最も非世界的な芸術であるといえます。

 

次に思考と認識というものをあげます。それは、論理的推理力とも区別されなければなりません。

論理的推理力とは、公理あるいは自明の命題からの演繹、特殊な現象の一般的法則への包摂、一貫した一連の結論を引き出す手法のような手続きなどに現われるものです。

 

人間=「理性的動物」ならば、新しく発明された電子計算機は、小型人間であると言えます。

ですが、実際には電子計算機は、他のすべての機械と同じように、人間の労働力の単なる代替物でしかありません。

 

プラトンは、エイドスとイデアに一致しているかいないかという標準を持っています。

すべての物は、純粋に世界的な存在としていったん完成されると、単なる手段性の分野をも超越します。

例えば、醜いテーブルと美しいテーブルは、同じ機能を果たすが、物の優秀性が判断される場合の標準は単なる有益性だけでなく、その物が本来似てしかるべきものに一致しているかどうかで判断されることがあります。

 

第5章への接続として、非生物学的意味における生命をあげます。

非生物学的意味における生命とは、各人が生から死までの間にもつ寿命であり、活動と言論の中に現われると言います。

活動と言論この二つは、ともに本質的に空虚であるという点で生命と共通します。

 

労働と仕事なしには活動はありません。

 

次に第5章、24節の内容です。

 

人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件です。

多数性は、平等と差異という二重の性格をもっています。

 

・平等とは:人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれた人たちを理解できないこと

・差異:各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないこと

 

人間の差異性は、 他者性とイコールではないと言います。

人間は、

・他者性をもっているという点で、存在する一切のものと共通している

・差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通している

という特徴があります。

この他者性と差異性は、人間においては、唯一性となります。

 

言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにします。

人間は、言論と活動を通じて、単に互いに「異なるもの」という次元を超えて抜きん出ようとするためです。

 

言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現われる様式であるといえます。

この現われは、単なる肉体的存在と違い、人間が言論と活動によって示す創始にかかっています。人間である以上止めることができないのがこの創始であり、人間を人間たらしめるのもこの創始です。

 

言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入します。

この挿入という行為は第二の誕生に似ていると、アーレントはいいます。

その衝動は、私たちが生まれたときに世界の中にもちこんだ「始まり」から生じています。

「活動する」というのは、もっとも一般的には「創始する」「始める」という意味です。

 

「始まり」の本性として、

・すでに起こった事にたいしては期待できないようななにか新しいことが起こる

・人を驚かす意外性は、統計的法則とその蓋然性の圧倒的な予想に反して起こる

・新しいことは、常に奇跡の様相を帯びる

というものがあります。

 

活動と言論は、特殊に人間的な根源的行為です。

言葉によって、行為者は、自分を活動者として認め、自分がなにをするか、なにをしたか、なにをするつもりであるかということを知らせます。

 

人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わします。

 

言論と活動の暴露的特質として、人びとが他人とともにある場合、つまり純粋に人間的共同性におかれている場合、前面に出てきます。

 

今回は、このように仕事と活動について分析していました。

 

 

ディスカッションの時間は、

アーレントの言う共同作業の捉え方についての話から始まりました。アーレントは、共同作業というものに対して批判的な見方をしています。これについて、アーレントの捉える共同作業とはどういうものか、そこから建築と分業についての話などが広がって行きました。

また、仕事と活動の違いについて、業務の中で美しく作業をしたいと思うが、忙しいと難しいし、人に同じことをしてもらうことは不可能だから、ジレンマを抱えているという話もありました。

最後に精神科領域の治療に関連して、心を言葉にする仕事と感じている人もいました。アーレントのいう芸術は心と心の響きあいのことをいっているのではないかという考察が出たりもしました。

 

回を重ねるうちに、「この話はこの人に聞いてみよう」というようになってきている気がします。なじみの顔の参加者のことを分かりつつあるからかもしれません。

とは言え、哲学学校は途中参加、初めての方も歓迎しています。

 

 

次回、第17回(奇数回)は、10月5日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第9章 自己と他者(その3) 他者認識と相互承認」を扱います。レジュメ作成と報告は、土畠先生が担当します。

第18回(偶数回)は、10月19日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第5章 活動(25~27節)」を扱います。

 

9月28日(火)と10月12日(火)の10:30~12:00は、「360分de読む 100分de名著」という番外編が開催されます。

番外編の課題図書は、『NHK100分de名著 カール・マルクス『資本論』 2021年 1月』です。

詳細は、こちらのページをご覧ください。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

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