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第15回 みらいつくり哲学学校 「第8章 自己と他者(その2) 世間と役割」開催報告

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21/9/2

2021年8月31日(火) 10:30~12:00、第15回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。

今回取り扱ったのは、「第8章 自己と他者(その2) 世間と役割」です。

レジュメ作成・報告は、稲生会の非常勤医師の荒桃子先生が担当しました。

 

今回も、自己と他者について哲学していきます。

今回の報告は、哲学学校初のパワーポイントで行ってくれました。視覚的にとても分かりやすく報告してくれているので、可能であればぜひ、アーカイブ動画も合わせてご覧ください。

 

まずは、世間についてです。

世間とは「個人同士」としてそれぞれの行為に自分を賭け、他者を巻き込んで、一生懸命に共同存在の場を生きているものだといえます。

一方で、「不特定の一般的な形」でその世間の有様を鋭敏に感知しながら、「世間体」を内心密かに気にしながら日常生活を営む場でもあります。

このように、際立った私があると世間の中では生きにくく、没個性のように特徴のない一人になっていきます。

 

この、特徴のない一人のことをハイデガーは「世人」と呼びました。

ハイデガーは『存在と時間』の中で、

人間は、「現存在」と呼ばれ、「世界内存在」するもの。この「世界」の生存の場の中に「現」に投げ出されて、各自の存在のありようを自分なりに決めて、「実在」してゆかねばならない存在者。

というように言っています。

世人は、安全に生きられて、「噂話」を好み、「好奇心」に操られ、すべてを「曖昧」にして生きます。

ハイデガーは、このような生き方を「非本来的な頽落」といいます。

「非本来的な頽落」というのは、他人と出会った時に、世人の噂話や相手がどういう態度を取るかなどに曖昧な注意を向け、相手に無関心そうでいておたがいの差異に敏感であるようなさまです。

他人と波風が立たぬよう体よく付き合う生き方は、心安らかであり,心地よいと言えます。

その様な状態を「頽落」と言います。

頽落は、自分なりの本来的生き方から疎外されてゆきます。

公衆性のなかに落ち込み、平凡かつ俗物的な世慣れした常識人として、自己喪失の大勢順応であり、

長い物には巻かれろ式の事大主義の生き方に、骨の髄まで冒されてもはやなんの真剣な問いかけを行う気力も勇気も喪失する。と筆者はまとめています。

 

本来的な自他のあり方として、積極的な「顧慮的気遣い」というものがあります。

「協力的ー支配的」な「顧慮的気遣い」は、他者のために心配事を取り除いてやる

「垂範的ー開放的」な「顧慮的気遣い」は、他者に手本を示して自立を促す

ものです。ハイデガーは後者を本来的な自他の関係と見ています。

 

「他者との本来的な共同存在」と「日常的な頽落した非本来的な「世人」のあり方」は、全く個別に存在するのではなく、それぞれを揺れ動き(変容し)ながら存在しています。

どんなに本来的な自己存在や、自他の関係といえども、つねに、平均的日常的な、色褪せた共同存在から出発し、またそこへと帰着する以外にはないと言えます。

 

「世人」というあり方は、いろいろな識者によって光を当てられた、現代人の自己喪失的な大衆化の状況と無関係ではない。と筆者は述べています。

 

キルケゴールは、『現代の批判』で、現代人とは、「好奇心に富んでいて、批評的で、世故にたけていて、せいぜい情熱と言えば賭事をする情熱ぐらいしかもっていない」人物であり、

「内包において失ったものを、外延において獲得している」のが人間であると述べています。

 

現代は、すべての人が誰でもなく、大勢のなかのひとりであるといえます。特定化できない公衆性のなかに埋没した不特定の「世の中の人」となりさがってゆく大衆社会でもあります。

この現代の無責任の社会状況を突き詰めると、全体主義やファシズムが広がることにつながると言えます。

 

フランスの哲学者、ロラン・バルトは『記号学原論』で、イェルスレフが提唱した人間の「言語活動(ランガージュ)」というものを挙げます。

一般的な社会規約としての言語体系であるラング(言語)  例:日本語、フランス語など

個人的な発話であるパロール(語)

だけでは人間の言語活動は補えず、

熟語化した慣用の語句である慣用の成句(ユザージュ,サンタグム)

というものが必要だと言いました。これを転用し、私たちの生活でも、世人と個人の間には「規格化された仕組み」というものがあり、それが私達の生活を支配しているといえます。

 

情報化社会の進展、水平化の拡大、漠然とした共通了解などの世間意識が拡大することによって、個人のかけがえのない人格性や、その垂直的な深さの体験を蝕み始めている。と筆者は述べています。

 

次に、役割についてです。

レーヴィットの『共同人の役割における個人』では、

・いまや、個人と個人とが、全面的に触れ合うことが不可能となり、わずかに「役割」ないし「役柄」において、相互に接触しうるにすぎなくなった

・役割を度外視した、赤裸々の、全人格的な触れ合いは、現代社会のなかでは、希薄になってゆく

と言われています。

 

自己と他者との役割・役柄における多様な諸関係も、一方でそれは、自他の関わりを希薄化し分裂させ、断片化する傾向をもつと同時に、他方でそれは、そうした状況のなかで、あるべき人間関係を形成するための、統合的全体化や人間化のための出発点を提供します。

 

現代の合理化された社会機構を、人間の自己疎外と見て、そこからの全面的解放を図ることではなく、むしろ、この合理的組織こそが、現代人の宿命であり、それに対抗しながら、しかしそのうちでこそ、「自由」と「可能的自己存在の場」を見出す努力を重ねることが重要と言われています。

 

合理的組織と官僚制機構を、不可避の運命と見て、積極的にこれを我が身に引き受け、そのなかでこそむしろ、「自由」と「責任」をもって「役割」を生き、「日々の義務」を果たすことに、現代人の課題があるといいます。

 

その「役割・役柄」の組織や規定に、疑念が生じ、不合理が生じたならば、そのなかで徐々にこれを改善し前進してゆくよりほかならないと筆者は言います。

 

ディルタイは、

人間は、「意欲」と「感情」と「表象」において生きる「全体的」な存在者であり、しかも、「偶然」と「運命」にさされながら、他者と様々な交渉関係において
「生の連関」を生きるものである。

と言っています。

 

このことから、個々人はどれかひとつの文化の体系に属しているのではなく、「多数の体系の交差点」であるといえます。

この交差点の中で、いくつかの枠組みを決めて、社会の外的組織が作られています。

それぞれ色々な交差点の中で生きていますが、広い視野で見ると一つの時代に生きているといえます。

この大きな「時代の連関」のなかで、様々な体系や組織の「諸連関の交差点」として、諸構造の織りなすひだのありさまで、相互に作用を及ぼし合い、関係の網目のなかに浸されています。

 

「人間の全存在は、団体の中に入り込まず」、「独立」であり、「個々人のうちには、神の手のなかにのみあるようなものがある」。

「人間が、その孤独な魂のうちで、運命と戦いながら、良心の深みにおいて生き抜くものは、その人間にとって存在するのであって、世界過程や社会のなんらかの組織のために存在するのではない」

個体としての人間の存在は、組織や機構のなかにはけっして還元されない。

けれども、人間が共同存在である以上は、その自己と他者の交渉関連のなかには、文化の諸体系の諸側面や社会の外的組織の諸機構が、複雑な影を投じて、その関係を濃密に染め抜き、彩っていることは否定できない。

 

として、今回は終わりました。

 

 

 

ディスカッションではまずはじめに、

人間の「言語活動(ランガージュ)」とは、具体的にどのようなものかという問いが出ました。

報告者の荒先生は、「JPOPなどでよく使われる"桜舞い散る"という表現は、慣用の成句と言える。桜を見てそれぞれ異なる感じ方で表現できる(パロール(語))はずなのに、慣用の成句を用いがち。その表現に用いるラング(言語)は、日本語」と分かりやすく答えてくれました。

パロール(語)に関連して、「一切擬音に触れさせずに子育てをしたことがあるという話を聞いたことがある」「炭酸を"じらじら"という家族だけの言葉があった。しゅわしゅわと言うみたいだけど、私にはじらじらがしっくりくる」という話題が出ました。

 

次に印象的だったのは、組織に関連する話題です。これまでの生き方やキャリアを考え直している真っただ中の人や、組織(仕事)としての関わりがあった人は皆友達と感じている人、自分が運営する組織に帰属意識を持たれたくないと感じている人など、組織というもの一つをとっても、様々なことを感じている人がいました。

 

今回は、ハイデガーが引用されていたこともあり、昨年度の内容を踏まえた考察なども広がりました。

 

今回は荒先生が視覚的に分かりやすくまとめてくれたスライドのおかげで、スムーズにたくさんの話が広がりました。

 

 

次回、第16回(偶数回)は、9月21日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第4章 仕事(22・23節)、第5章 活動(24節)」を扱います。

第17回(奇数回)は、10月5日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第9章 自己と他者(その3) 他者認識と相互承認」を扱います。

レジュメ作成と報告は、みらいつくり研究所 所長の土畠智幸が担当します。

 

今月は休みが多いですが、休み期間中は「270分de読む 100分de名著」という番外編が開催される予定です。

番外編の課題図書は、『NHK100分de名著 カール・マルクス『資本論』 2021年 1月』です。

日程は、

①9月7日(火)10:30~12:00 (第1回放送分)

②9月14日(火)10:30~12:00 (第2回放送分)

③9月28日(火)10:30~12:00 (第3回放送分)

で行われる予定です。

 

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

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