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第6回 みらいつくり哲学学校 「第2章 公的領域と私的領域(7~9節)」開催報告

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2021.6.3

 

2021年6月1日(火) 10:30~12:00、第6回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

偶数回は、ハンナ・アレント著, 清水速雄訳『人間の条件』を課題図書にしています。

今回取り扱ったのは、「第2章 公的領域と私的領域(7~9節)」でした。

 

まず初めに公的領域について、「公的(パブリック)」という用語は、2つの現象を意味していると言います。

公的という用語の意味の1つめは、「公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示される」というものです。

 

なかでも、「現われ」というものがリアリティを形成するそうです。

例えば、個人的経験を芸術(絵画や小説や音楽)に転換するような場合をいいます。

作家が個人的経験(私的領域)を小説などで表現するとき、公的領域に「現われ」るということです。

 

近代が勃興して公的領域が衰退し、私生活の親密さが知られていきました。

それによって、主観的な情動と私的感覚の規模全体を強化し、豊かになりました。

ですがこの強化は、世界と人びとのリアリティに対する確信を犠牲にしておこったと、アーレントは言います。

 

リアリティにたいする私たちの感覚は、現われ=公的領域の存在に依存しており、隠された存在の暗闇の中から、事物は公的領域に姿を現わすことができます。

 

肉体的苦痛は、公的現われとすることができない(私的領域)唯一の経験で、私たちからリアリティにたいする感覚を奪うものだと言います。

 

公的領域の中に、公的舞台というものがあります。そこでは、次回奇数回で取り扱う、「愛」についてこう書かれています。

「愛はそれに固有の世界性のゆえに、世界の変革とか世界の救済のような政治的目的に用いられるとき、ただ偽りとなり、堕落するだけ。」

…愛は公的なものにはならない、という意味でしょうか。

 

次に、公的領域ではないもので、伝染力・異常な魅力をもつものとして、「小さなもの(可愛いもの)」があると言います。

ドイツ語からの訳には、例として「体の不自由な人」もこの中に入っているようです。

 

公的という用語の意味の2つめは、「世界そのもの」です。

世界とは、私たちすべての者に共通するもので、人間の工作物や人間の手が作った製作物に結びついています。

世界は、すべての介在者と同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させているそうです。

 

公的領域は当時非常に重視されていましたが、人々は時代とともに無関心になっていきました。

この無関係が進んだのは、初期キリスト教哲学の影響が大きいそうです。

アウグスチヌスは、すべての人間関係を同胞愛の上に築くよう求めました。

 

同胞愛は、人間の一般的経験である愛と一致しているが異なる面(無世界性)を持ちます。

人びとを繋ぐ同胞愛という絆は、それ自身の公的領域を創設する能力はもたないが、無世界性を説くキリスト教の主要原理には完全に合致していると言います。

 

その後、世界は持続しないという仮定から、無世界性が政治現象として現れていきました。

 

ここで、アーレントは一つのキーワードとして、「永続性」を挙げます。

公的空間は、死すべき人間の一生を超えなくてはならないことから、永続性が必要だということです。

 

共通世界(公的領域)は私たちが生まれるときにそこに入り、死ぬときにそこを去るところのものであるにも関わらず、近代になって公的領域が失われていっています。

 

アダム・スミスは、「一般に文人と呼ばれている、かの繁昌せざる種族(医者、法律家、詩と哲学)たちにとっては、公的称賛が、いつもその報酬の一部をなしている」といいました。

この公的称賛は日々多量に消費されるようになっており、それによって金銭的報酬がますます「客観性」を帯び、現実的となって重視されていきます。

 

共通世界は万人に共通の集会場ではあるが、そこに集まる人びとは、その中で、それぞれ異なった場所を占めています。

共通世界の条件のもとでリアリティを保証するものとして、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実が挙げられます。

 

大衆世界に不自然な画一主義の登場によって、共通世界の解体は避けられなくなりました。

 

次に、私的領域についてです。

 

完全に私的な生活は、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」そうです。

何が奪われているかというと、それは他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティだといいます。

 

大衆社会では、孤独は最も極端で、最も反人間的な形式をとっているとされます。

 

孤独の大衆現象として、

・大衆社会は、ただ公的領域ばかりでなく、私的領域をも破壊し、人びとから、世界における自分の場所ばかりでなく、私的な家庭まで奪っている

・世界から放り出された人たちでさえ、そこでは、炉辺(ろばた)の暖かさと家庭生活の限られたリアリティに慰められた

などが挙げられます。

 

キリスト教の勃興によって、私生活・家庭生活は大切なものが奪われているという意識が消滅しました。

 

アーレントは公的領域が最終的に消滅すると同時に私的領域も一掃される運命にあると言います。

 

次に、財産と富について触れます。
財産と富の違いは、
・財産は個人のもの。世界の特定の部分に自分の場所を占めることだけを意味。市民がなにかの理由でたまたま自分の場所を失うと、自動的に、市民権と法の保護をともに失った。

・富は共通、社会全体で共有するもの

 

財産は、私的領域にあるものの、常に政治体にとって最も重要だと考えられていました。
財産の所有は、生命が必要とする物を征服しているということです。

それは、その人が自由人であるということを意味し、自身の生命を超越して万人が共有する世界に入る自由をもつことを意味していました。

 

都市国家の勃興によって、私的所有が目立って重要な政治的意味を帯びるようになりました。

 

財産は近代の初めまで、神聖なものとは考えられていませんでしたが、徐々に財産が神聖な性格を帯びるようになっていきました。

私的、公的なものに次いで、「社会的なもの」が出てきました。

社会的なものが最初に公的領域に入ってきたときは、財産所有者の組織という形をとっていました。

 

共通世界は必ず、過去から成長し、未来の世代のために永続するものと期待されます。

一方で、私的所有物は永続性がなく、所有者が死すべきものであるのでその死によって滅びるものとされていました。

 

ですが、富が資本となり、ますます多くの資本を生むようになったとき、私有財産は、共通世界に固有の永続性を獲得するようになりました。

近代の財産概念として、財産の源泉は、人間自身の中にあります。
人間が肉体と肉体の力を所有していることの中にあるものが、マルクスが名づけた「労働力」です。

 

私生活の観点からは、公的領域と私的領域の違い=見せるべきものと隠すべきものとの違いであり、

隠されたものの領域(私的領域)が、親密さの状況の下では豊かで多様であるということが発見されたのは、近代の社会に対する反抗が起こってきてからでした。

この影響で、当時隠されていた、女と奴隷は同時期に解放されました。

 

 

今回はこのように、公的領域と私的領域について触れられていました。

 

 

ディスカッションの時間は、

 

冒頭の個人的経験を芸術として表現することについて、昨年度の哲学学校自由研究を思い出したという話や、

最近家庭でも職場でもない居場所、サードプレイスについて興味があるという話題が出ました。

 

そこからサードプレイスに関連して、そういった場所の名前には「○○カフェ」というように、カフェが付きがち。

みらいつくり研究所の活動もサードプレイスになり得るのではないかという話が広がりました。

 

本文内については、論点や時代がころころ変わって分かりにくかったという感想や、

アーレントのいう、物事の見方「遠近法」はいったいどのような見方なのかという疑問点が挙がりました。

 

それ以外には、本文中の語句の意味などを、ドイツ語版からの内容を踏まえて考えたりしました。

 

公的・私的という考え方は、当たり前に昔からあるものだと思っていました。この様な経緯でできたのですね。

 

次回、第7回(奇数回)は、6月8日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第4章 愛の深さ(その1) 愛と、呼びかけてくるもの」を扱います。レジュメ作成と報告は、「みらいつくり大学」教務主任の宮田直子が担当します。

第8回(偶数回)は、6月15日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第2章(10節)~第3章(11・12節)」を扱います。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。

 

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

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