Works

第29回 みらいつくり哲学学校 「共有の廊下・中庭の哲学 ― プラグマティズム哲学入門」 開催報告

2020年11月26日(木) 10:30~12:00、第29回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、大阪哲学学校編『生きる場からの哲学入門』を課題図書にしています。

 

前回に引き続き、東京から哲学学校に参加してくれている陣内俊さんが、今回のレジュメ作成および報告を担当してくれました。

テーマは、「共有の廊下・中庭の哲学―プラグマティズム哲学入門」でした。

 

筆者は今回、様々な書籍や論文からプラグマティズムについてをまとめていきます。

 

W.ジェームズの『プラグマティズム』という本の中では、「木の上にいるリスを見るために、木の周りを素早く駆け廻る人がいる。リスも同じ速さで反対方向に進むとき、人とリスの間には常に木があるので、いつまでもリスの姿が見えない。この場合、人間がリスのまわりを廻っていると言えるのか?」という例え話からプラグマティズムを紐解きます。

この話でいえば、「リスのまわりを廻る」という言葉の意味の捉え方によって答えは異なります。そのように、「信念や観念、ものの見方は、それを持つ人の置かれた状況・視点・性質等々によって様々に考えられること」をプラグマティズムというようです。

 

また、プラグマティズムの考え方を最初に定式化したといわれる哲学者のC.S.パースは、論文でプラグマティズムの格言を記しています。元となる文は難しいものですが、その文章を筆者が要約すると「プラグマティズムとは、ある対象について我々が持つ観念は、それが我々の実際の行動において我々に何らかの効果(変化)を与えた場合、その効果(変化)そのもの」だといいます。

例えば、何かの問題を解決する方法として、A・Bという2つの道があるとします。「Aがいいと思う人」と「Bがいいと思う人」がいた時、どちらも進んでみて、それぞれが同じ場所にたどり着けば同じことを主張していたといえるし、違う場所であったならそれが意見の違いといえるということです。

つまり、プラグマティズムとは「方法によって世界を解明していく態度」であると言えます。

 

W.ジェームズは、「どんな対象でもいつかは一時的に重要となることがある。そのため、余計な真理(いつか重要になるかもしれない事柄)を広く蓄えておくことは有益。余計な真理を記憶の片隅に蓄え、それが必要となった時に取り出されて、現実世界で働き、余計な真理にたいする我々の信念が活動しはじめる。

その真理について、『それは真理であるから有用である』ともいえるし、また『それは有用であるから真理である』ともいえる。これら二つの言い方は同じ事を意味している」といいます。

「真理」とは「有用」と同義とされるのであり、問題解決のための「道具」であるというのがプラグマティズムの真理観なのです。

 

プラグマティズムは、その都度有用と思われるものをあてはめ、効果があったならそれを真理とする考え方です。そのため、真理は定まった一つではなく、その都度様々な学問・領域等から折衷し探していく側面があります。

 

南北戦争後は、南北両軍の兵士や支持者が入り交じって生活していかねばならない社会でした。昨日まで殺し合っていた両者が、これから一緒に生活して行くには、対立する相手でも、互いがその存在や意見の違いを認め合う道が一番適していました。

 

プラグマティズムの多元的真理観に対しては、その当時から、各人が意見を述べればそれが真理だとされる、利己的で自分勝手な思想だという批判がありましたが、それは極端に歪曲された理解で、実はこのような背景があったようです。

 

プラグマティズムの視点に立った哲学について、「新しい哲学は、具体的事物と具体的価値の中にしっかりと根ざすものとしたい。その哲学において展開される象徴的、一般的原理は日常生活における具体的、個別的事物ならびに価値に結ばれることになる。具体的事物および価値にひたると共に、抽象原理の域にも行く。さらにまた具体的事物および価値に戻る…。というように「行きつ戻りつのコツ」を心得たものこそ、あるべき哲学者なのであり、水陸両棲のこの技術を人々に植え付けるものこそ、新時代の哲学教授法だ。これは新しい工夫と熟練を要する。」と日本の哲学者、鶴見俊輔は述べます。

 

そしてこの哲学は現在、各人がそれぞれの生活的立場から考える課題としておかれているとして、筆者のプラグマティズムについての哲学は締めくくられました。

 

 

ディスカッションの内容は、

・プラグマティズムの真理観はとても大胆
・有用なものかどうかは誰がどう判断をするのか?
・経験や価値観、知識など様々なものを持つことは大事だとは思うが、哲学的な良し悪しについては分からない

まず、上記のような感想や疑問が挙がりました。

 

本文を読んで、ワークショップをイメージしたという話題も出ました。「少数意見を拾うための道具的手段として、ワークショップがあると思う。それはプラグマティズムといえるのでは?」という実生活に基づいた意見から、本来は民間主体の問題解決や広く意見を集める場であるはずなのに、最近は行政が主催・主導することが多いよねという話になりました。

 

その他、「プラグマティズムは数字や量を優先しがちで、質や倫理的側面を見ないように思う」という意見や、「社会が左右に分断したのは。意見の異なる人々が出会わなくなったからでは?」といったような政治的な考察にも発展しました。

 

最終的には、人と出会うことは重要だ(突拍子が無いようですが、話題的には繋がりがあります)という話になり、幕を閉じました。

 

今回は、「なんとなく理解はできる気はするけど、人に説明するのは難しい」そういった内容で、この開催報告も難産でした…。少しでも皆さまに伝われば、と思います。

 

 

次回、第30回(偶数回)は、12月1日(火)10:30~12:00ハイデガーの『存在と時間』より、第2篇第4章 時間性と日常性 前半(第67~68節)です。

 

第31回(奇数回)は、12月10日(木)10:30~12:00『生きる場からの哲学入門』より、「抽象と具体の狭間から」を扱います。
レジュメ作成と報告は、みらいつくり研究所 学びのディレクターの松井翔惟が担当します。

当日参加だけでなく、希望があればアーカイブ動画も共有できます。ぜひ、ご連絡ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

 

みらいつくり哲学学校オンラインについてはこちら↓

「みらいつくり哲学学校 オンライン」 始めます