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第27回 みらいつくり哲学学校 「全体主義とは何か アーレント『全体主義の起源』を手がかりに」 開催報告

2020年11月12日(木) 10:30~12:00、第27回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、大阪哲学学校編『生きる場からの哲学入門』を課題図書にしています。

今回は、東京から哲学学校に参加してくれている陣内俊さんが、レジュメ作成および報告を担当してくれました。

テーマは、「全体主義とは何か―アーレント『全体主義の起原』を手がかりに」でした。

 

全体主義とは何か。この定義は難しく、独裁・権威主義・ファシズムといった事柄との区別も含め、全体主義について明確に説明している解説書や論文はほとんどないそうです。

 

筆者は今回、ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』という本を手がかりに、全体主義とは何かという問いについて考えていきます。

アーレントは、全体主義が独裁や専制とは異なる、「過去に例を見ないまったく新しい統治体制」であることを強調し、その決定的な差を全体主義の「運動」性としています。つまり、全体主義は大衆によって支持される強力な政治「運動」であるということです。

 

全体主義政党は大衆を「プロパガンダ(特定の思想によって個人や集団に影響を与え、その行動を意図した方向へ仕向けようとする宣伝活動の総称)」によって獲得した、とアーレントは論じます。

 

全体主義におけるプロパガンダが大衆に対して強力な効果を発揮したのは、それが現実の世界に変わる疑似世界のリアリティを提供するからだと言います。全体主義に心酔する人たちは、複雑な現実の世界よりも、全体主義プロパガンダが提供する「首尾一貫性をもった虚構の世界」のほうが「現実的(リアル)」に、居心地良く感じられます。

 

それゆえ、全体主義の世界観は、非常に単純化された善悪二元図式(および終末的思想)で出来ていることが多いそうです。

 

アーレントは、大衆が現実を逃れ、矛盾のない虚構の世界(全体主義プロパガンダ)を求めるのは、彼らが現実の「世界」に根ざす感覚を喪失しているからだと論じます。

 

また、他者との関わりをはじめとする空間としての「共通世界」が失われている、その状況を「世界疎外」と呼んでいます。

 

全体主義的支配は世界疎外(孤立)の上に成り立っており、世界疎外の状態に耐えきれない大衆たちにとっては、全体主義が提供する虚構の世界観は非常に安定した心地よいものに感じられるということです。

 

それらをふまえて、ナチズムやスターリニズムは、こうしたプロパガンダを利用して強力な運動の推進力を獲得してきたものである、と著者は述べます。

 

ナチスの強制収容所は、人間を「余計なもの」にするための装置だとアーレントは論じ、全体主義は現代の人間が「自分が余計なもの」なのではないかと考えている潜在的な不安感覚を反映して生まれたと考えます。

アーレントの考える全体主義の定義は、「人間の自発性と複数性を消去し、同一性のうちに還元していく運動」だといえます。

 

このような全体主義運動においては、人間の「自発性」(自由)と「複数性」が無きものとされ、人々は「巨大な一者」となってしまいます。そしてそのシステム内では、誰もが「余計なもの」として扱われ、常に廃棄/処分の対象となります。

 

筆者は、「余計(余剰)なもの」の問題が改めて深刻化する現代において、全体主義運動が回帰してくる危険性を示唆します。そのような現代の中で、アーレントの思考は多くのヒントを与えてくれるはずだとして、全体主義にまつわる哲学は締めくくられました。

 

今回、報告者の陣内さんは、ファシズムについての関連書籍等の内容も含めて、分かりやすく報告してくれました。

 

ディスカッションの内容は、ポピュリズムと全体主義の違いは何だろうという話題から始まり、以下のような全体主義に関連する事柄が多く出ました。

 

・全体主義のように大衆が一方向の考えに偏ることは大変危険

 

・全体主義やファシズム的な陶酔感は、集団(例えば、学校等)では起こりうる。陶酔は危険だが、良いものとして利用されがち

 

・全体で夢中になって熱狂することといえば、スポーツをイメージする。でも、スポーツの場合は、スポーツマンシップのように争いごとをスポーツの外に持ち出さない共通の規範がある。

 

それ以外にも、日常生活の中で何かにそこまで熱中し、陶酔し続けられることができるか?という疑問や、「みんながやってるからやってる」ことは多い。といった日常生活に関連した話題も出ました。

 

最終的には、偶数回のハイデガー『存在と時間』に関連づけて、アーレントのいう人間の「自発性」と「複数性」は、ハイデガーでいう「固有性」ともいえるのでは?という話が出たり、みんなと違うこと自分が選べば「自分らしさ」というのはわかりやすいが、みんなと同じことで自分もそうだと思っていても、「自分らしさ」とはとらえにくい。といった考えが出ました。

 

結局行きつく先はハイデガーという、哲学学校特有の流れで今回は幕を閉じました。

 

皆さんは、大勢に流される方ですか?それとも、自分を貫き通す方ですか?

 

どちらが良いというわけではありませんが、生活する中で「自分らしさ」を持つことは、なかなか難しいことですよね。

 

次回、第28回(偶数回)は、11月19日(木)10:30~12:00ハイデガーの『存在と時間』より、第2篇第3章 気遣いの意味としての時間性(第61~66節)です。ついに第3分冊に突入します。

 

第29回(奇数回)は、11月26日(木)10:30~12:00『生きる場からの哲学入門』より、「共有の廊下・中庭の哲学―プラグマティズム哲学入門」を扱います。

レジュメ作成と報告は、続けて陣内俊さんが担当してくれます。

当日参加だけでなく、希望があればアーカイブ動画も共有できます。ぜひ、ご連絡ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

 

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