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第23回 みらいつくり哲学学校オンライン「存在しない仏に祈る」 開催報告

 

2020年10月15日(木) 10:30~12:00、第23回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、大阪哲学学校編『生きる場からの哲学入門』を課題図書にしています。

 

今回は、「みらいつくり大学」教務主任の宮田直子が、レジュメ作成および報告を担当してくれました。

 

 

テーマは、「存在しない仏に祈る―浄土仏教は生きているか―」でした。

 

僧侶である筆者は、これから述べる考えは仏教界や宗派を代表するものではないと前置きしたうえで、「現在の日本で、仏教はおそらく人々に生き方を示す力とはなっていません。」というところから現代日本と仏教に関する事柄を哲学していきます。

 

釈迦の仏教では合理的な思考と行動によって苦しみから脱しようとするのに対し、浄土仏教は阿弥陀仏という超越的な仏にすがることによって救われようとします。このことから、浄土系仏教の求心力は低下する一方であると筆者はいいます。

その理由として、浄土仏教内で語られる極楽浄土への往生という物語が、現代人にとってあまりに空想的で受け入れられがたいのではないかと分析します。

 

仏教は病的なまでに苦を掘り下げるもので、四苦八苦という仏教用語を挙げ、苦とはつまり「思い通りにならないこと」だといいます。不完全性でしかありえない人間が、叶わない状態を求めてしまうから、苦しみが生まれるそうです。それが他の動物との違いであり、苦しみ・願い・救いはひとつながりであると主張します。

 

 

浄土宗開祖の法然は、覚(さと)りの境地に至ることの困難さ、自分の無力さ、答えや問いの前提となる苦しみと格闘しており、病的なまでに苦を掘り下げる、苦を感じるセンサーの感度が高かったようです。

また、法然は三学(さんがく)という、仏道修行に必要な三つの大切な事柄「戒・定・慧(かい・じょう・え)」(悪を止める戒・心の平静を得る定・真実を悟る慧)の実践が行えず嘆き、探求の末、誰もが念仏によって往生が可能となる平等往生を広めました。

 

念仏とは、

・仏を念じる事

・見仏(けんぶつ)…仏の姿を目の前に映し出す、浄土の様を目の当たりにする

・観仏(かんぶつ)…仏のすぐれた姿を心に念じて禅定(心が動揺することがなく              なる)に入っていくこと

であり、上記は大変な精神的集中力を要するため一般人には難しく、誰もができる称名念仏(しょうみょうねんぶつ―「南無阿弥陀仏」と称える事)が推奨されています。

 

 

浄土経典で描かれている、無限の光明と無限の寿命とをもって人々を救済する「阿弥陀仏」や、一切の苦しみが取り除かれ、苦しみの概念すらないという「極楽浄土」の存在を私たちは信じることができるか?という問いから、筆者はキリスト教の神概念を批判した哲学者フォイエルバッハの「神は人の本質が対象化されたものである」という言葉を引用し、これは阿弥陀仏にもほぼ当てはまると述べます。

つまり、阿弥陀仏が存在するからわれわれは救われるのではなく、救われたいという願いが阿弥陀仏の存在を要請する。ということです。

 

筆者は浄土=ユートピアであることから、どこにも存在しない。と浄土の存在を否定します。また、物質的存在としての仏は存在しておらず、特別な宗教的能力の持ち主にしか存在を感じることができないことから、仏による救いをも否定します。

 

仏も浄土も、さらには救いも存在しない。ならば念仏を称えることは無意味かというと、そうではないと筆者は主張します。

生きることは苦しみにあふれており、救われたいから声を発せずにいられない。念仏は人間の救いを求める叫び声であり、泣き叫ぶこと自体に積極的な意味があるそうです。

 

筆者の仏教に関する語りは、「仏による救いは存在しない、にもかかわらず祈る。それが筆者の今の仏教である」という言葉で締めくくられました。

 

 

 

ディスカッションの内容は、

 

筆者が仏や浄土、救いの存在を否定していたことに対する驚きや、文中では「人は皆、常に苦しみの中にいる」ように表現されていたが、本当にそうなのか?という疑問などの、本文に対する感想が出ました。

そこから、Zoomの機能を使って参加者を対象に「皆さんは救われたい?今のままで大丈夫?」というアンケートが行われました。結果は、「救われたい56%:今のままで大丈夫46%」となり、救われたいという人がわずかに多いようでした。

 

困難なことに直面した時には、(特定の神にではないが)祈ることがあるという話から、特定の宗教の決まった神を信仰していない場合に想像する「神さま」とは、いったいどんなイメージなのか?という疑問が生まれ、「白いひげの長いお爺さん」「無形の光のようなもの」「創造神」といった、それぞれのイメージする神さま像が共有されました。

 

また、法然の苦を掘り下げる姿勢というのは、(哲学学校偶数回の課題図書)ハイデガーの『存在と時間』でいうところの本来性という在り方と共通しているのでは?という意見が出たりしました。(何かの話をしていて、比較対象としてハイデガーが出てくるのは面白いという話題もありました(笑))

 

仏教についてはよく分からないという方も多くいましたが、今後開催予定の哲学学校外部講義では、仏教やキリスト教についてのお話を聞くことができるようです。その時には色々なお話を聞けたらいいねという事で、今回は幕を閉じました。

 

 

 

皆さんは、どうにもならない現実に直面した時、どうしますか?今回のお話にもありましたが、困っていることを周囲に伝えたり、祈りとして表出したりすることは大事なことなのだと思いました。

 

 

次回、第24回(偶数回)は、10/20(火)15:30~17:00(※時間注意です)ハイデガーの『存在と時間』より、第2篇第2章「本来的現存在の証しと決意性」前半(第54~57節)です。

 

第25回(奇数回)は、10/29(木)10:30~12:00『生きる場からの哲学入門』より、「サラリーマン人生を終えた今、考えること」を扱います。

レジュメ作成と報告は、哲学学校に初回から全て参加してくださっている和田さんが担当してくれます。

 

 

当日参加だけでなく、希望があればアーカイブ動画も共有できます。ぜひ、ご連絡ください。

皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

 

 

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